11月 03日 フィッシュマンズについて思い出すこと
90年代後半、僕が大学生のころに、『LOUD』というテクノ専門の音楽雑誌を購読していた。その雑誌には、曲の論評、新譜の情報、著名DJの来日情報のほか、テクノとは関係のない、ちょっと面白いコラムなんかも載っていて、僕はそういった記事を楽しみにしていた。その雑誌には、たまにテクノ以外の音楽を紹介する記事があり、そこで絶賛されていて、気になって購入したアルバムがいくつかある。よく覚えているのは、『Push the Button』/Money Mark(1998)と『空中キャンプ』/フィッシュマンズ(1996)だ。

僕はその雑誌を読むまでフィッシュマンズのことを知らなかった。当時、僕はほぼ毎週水曜日に渋谷のCisco TechnoとHMV(水曜日はポイントが倍になるサービスだったと思う)に通っていて、試聴できるものの中から気になった音楽を片っ端から聴いていた。その当時、邦楽では、サニーデイ・サービス、くるり、中村一義、スーパーカー、レイ・ハラカミなんかを気に入っていてよく聴いていたが、不思議なことにフィッシュマンズのことは知らなかった。そういったこともあり、フィッシュマンズのCDを手に取ったことはよく覚えている。
CDを買った日に、大学の友人のたまり場のようになっていた友人T(いずれ大学の教員になる)の家に行き、さっそく買ったばかりのCDをステレオから流してもらった。最初の印象は正直に言ってパッとしなかった。友人の感想もそうだった。なぜ、この音楽が絶賛されていたんだろう。僕は家に帰って何度か流したが、そのうちに、徐々にクセになってくるのがわかった。浮遊感のある歌声、独特なベースラインによるダブ感が部屋の雰囲気を温めていき、次第に僕はフィッシュマンズが好きになった。
地元の友人N(いずれ地元の会社の社長になる)もフィッシュマンズが好きということだったので、一緒にライブに行くことにした。当時の記憶と公演記録を照らし合わせると、おそらく1998年10月の「8月の現状」ツアー最終日だったと思う。ライブ前に突然の強い雨が降り出し、会場にいたお客さんはカッパを買うために列をなしたが、ライブが始まる直前にすっかり雨はやみ、僕たちは買ったばかりのカッパをカバンにしまって鑑賞した。一番印象に残っている曲は彼らのデビュー曲「ひこうき」だった。ボーカルの佐藤伸治が飛行機のように両手を広げて歌っていたのを、何十年たった今でも鮮明に覚えている。
2人の物語は いつでもあの日のまま いくつもの時がたっても
消えない飛行機雲も あの日のままだよ こんどもここでずっと会える
そんなこともあったので、翌年に佐藤伸治が亡くなったという話を友人Nから聞き、僕は困惑した。うそだろ?ジョン・レノンが亡くなった1980年、僕はまだ幼かったので記憶がない。カート・コバーンが亡くなった1994年、僕は高校生だったが、どのように受け止めたかは記憶にない。だが、1999年の佐藤伸治の死は、今までに経験したことのない感情で僕を満たした。悲しんだり悔んだりして涙を流すというよりは、言葉にも映像にもできない喪失感に襲われ、僕は何も考えられず、動くこともできなかったのだ。
今考えてみると、それは僕の死に対する受け止め方の変化によるものだと思う。トーマス・マンの『魔の山』には、葬儀が人間の精神にもたらす特別な作用について語る場面がある。その作用も、人によって、あるいは人生の時期によって異なるものなのだろう。葬儀には、それぞれ異なった形で死を受け止める人々が集まる。何もわからずただはしゃぐ子供たち、それを戒める若い両親、深い悲しみを隠すことができない親族、恩人を失い憂いに満ちた目をした人々、達観した目で眺める老人。あのときの佐藤伸治の死は、まだ若かった僕自身の変化を否応なしに意識させたのだと思う。
ボーカルの佐藤伸治が亡くなったことで、フィッシュマンズもそのまま風に消えるように人々の記憶からなくなってしまうかと思われたが、実際にはそうはならなかった。彼が亡くなってからもフィッシュマンズの新しいレコードは発売され、多くの人々の記憶にとどまっているばかりか、当時の佐藤伸治を知らない若い人たちも彼らの曲を歌っている。
僕は彼らの曲をいまでも聴いているし、彼らをカバーした人の曲も好んで聴いている。そんなときに、ほんのふとした瞬間、なんとも言えない気持ちになることがある。彼らの音楽がまだ多くの人の心を打っていること、彼らの音楽を僕が今でも聴いていること、佐藤伸治はずっと前からもういないんだということ。彼の書いた曲が流れると、彼が書いた歌詞が耳に入ると、それから僕が経験してきたさまざまな出来事と複雑に共鳴し、特別な感情を引き起こす。それは彼が死んだ約30年前とはまた違ったものになっている。おそらく僕は悲しんでいるんだと思う。