アンディ・ウォーホルに辛辣だった草間彌生

2022年9月から京都でアンディ・ウォーホルの展覧会「アンディ・ウォーホル・キョウト / ANDY WARHOL KYOTO」がスタートしたということで、いくつかの雑誌で彼の特集が組まれている。

epulorでは、Casa BRUTUSの特別編集のムック本を購入した。アンディ・ウォーホルの創刊した「Interview」を意識したのか、彼に関するインタビューで、その多くが構成されている。登場人物も、レディガガ、オノヨーコ、坂本龍一、杉本博司、草間彌生など、そうそうたる顔ぶれで興味深い。

特定の人物について、その人にかかわった別々の人々に対してインタビューすることは、読み手の解釈しうる人物像が立体性を帯びるための手段として、確かに有効だった。座談会のような形にすると、人は無意識に言葉を制限したり、声の大きい人に影響をうけてしまうものだ。客観的でフェアーな一人が調べて語ろうとしても、筋の通ったストーリーを無意識に作り出してしまうかもしれない(それは往々にして、書き手が有能であればこそ、陥ってしまうジレンマだ)。

それぞれのインタビューは、それぞれにキャラクターや時代性が感じられて興味深かったのだが、一番心に残ったのは草間彌生のインタビューだ。彼女はアンディ・ウォーホルに対して辛辣だった。彼は時代の先駆者ではなく、うまく立ち回った人。短い文章の中でも、彼女からはスタンスの違いを明確化するプライドが垣間見れる。アンディ・ウォーホルは1928年8月生まれで、草間彌生は1929年3月生まれ。同世代がゆえの対抗心というのもあるのかもしれない。

「時代にうまく立ち回った人」は、あらゆる時代のあらゆるジャンルで存在するものだ。多くの場合、経済的にも名声としても成功することによって、羨望と嫉妬が入り混じった目で見られる。きっとアンディ・ウォーホルも、同業者からみられる複雑な視線に微妙な感情を抱いたに違いない。

ところで、僕は「時代にうまく立ち回った人」に対して批判的な気持ちはあまり持たない。言葉の持つ内包的な否定性はともかく、うまく立ち回ることは、それが苦手であったとしても、ある程度は必要な努力なんじゃないかと思うのだ(でもゴッホには無理だったのかもしれない)。特にそれがある種の表現である場合、自分の生きた時代に意味を与えることの手段として、無視できない程度には重要だ。

少し年をとったのか、自分の記憶する過去の時代について考えることが多い。その時の空気感を肌感覚で覚えていることは、現代という時代を相対的に認識するうえで、ものさしとして役立つ。時代に意味をあたえたもの。そういえば、時代を想起させる音楽が、その時によく自分が聴いてきた音楽ではなく、その時に町でよく流れた流行歌であるのは興味深い。

自分の生きる時代の流行に対して身構えてしまったとしても、振り返る過去においては、象徴的対象を通じた時代という概念が必要なのだ。