正岡子規のガラス障子とル・コルビュジエの窓についての考察

少し前に新聞を眺めているとセンター試験の現代文がたまたま目に入った。内容は、柏木博氏の『視覚の生命力―イメージの復権』の抜粋文(文章I)と呉谷充利氏の『ル・コルビュジエと近代絵画――二〇世紀モダニズムの道程』の抜粋文(文章II)を比較したものだったが、実に興味深かった。

https://www.yomiuri.co.jp/nyushi/kyotsu/mondai/__icsFiles/afieldfile/2023/01/14/kokugo_mon_1.pdf

結核で寝返りもままならなかった正岡子規は障子の紙をガラスに変える。日本で初めてガラスが作られる前の話なので、高価な輸入品だったはずだ。それでもガラスにしたのは、彼にとって窓から見える移り変わる外の景色が、何物にも代えがたい楽しみだったのだ。

ル・コルビュジエはより明確に窓をフレームとスクリーンで構成された視覚装置ととらえ、壁との配置によって空間をデザインしている。彼は窓について、喚起という単純な機能的な役割というよりも、重要な視覚装置として位置付けているのだ。

試験にチャレンジした高校性は、問題文のル・コルビュジエの考え方やサヴォア邸の写真についてどのように記憶するのだろうか。試験勉強にあけくれた受験生に対し、このような文章を読ませ問題を提示した出題者はとても立派な人なのでないかと僕は予想している。

ところで、僕が気に入った文章は以下のくだりだ。

彼は初期に次のように言う。「住宅は沈思黙考の場である」あるいは「人間は自らを消耗する<仕事の時間>があり、みずからをひきあげて心の琴線に耳を傾ける<瞑想の時間>とがある」

呉谷充利氏『ル・コルビュジエと近代絵画――二〇世紀モダニズムの道程』(文章II)

僕はカフェもバーも基本的には「沈思黙考の場」であると思っている。ル・コルビュジエが窓で空間をデザインしたように、僕らはコーヒーやワインやレコードによって心の琴線に耳を傾ける<瞑想の時間>を演出しなければならない。はたして、どこまでできるようになるのだろうか。