2022年ノーベル文学賞受賞したアニーエルノーについて

ダブリナーズという小説がある。ユリシーズで有名なジェイムズジョイスによる短編集だ。1882年生まれのジョイスが、この短編集を1914年に正式に発表されるまでに10年近くを要したというのだから、初版を書き終えたのは20代前半ということになる。当時のアイルランド社会というか世相についての分析をストーリーテラーとして巧みに構成する技量を、その若さで持っていたという事でも、やはり歴史に残る卓越した作家というのがよくわかる。

若い作家のもつエネルギーや自分の生きる時代に対する感度の鋭さと、ストーリーテラーとしての才能や社会世相の理解と分析力とは、多くの場合トレードオフで、ジェイムズジョイスのように何もかも持ち合わせている人はほとんどいない。ただ、そういう意味で優れた作家もいれば、特定の何かに振り切って優れた作家ももちろんいる。アニーエルノーは後者の意味でとても優れた作家だと思う。

僕の読んだ「嫉妬」「事件」は、今まで読んだことのない独特なタイプの小説だった。巧みにストーリーを展開して読者をどこかに別の世界へ連れてってくれるのではなく、一つの経験を通じた内的分析が美しい言葉によって、ずっしりと深淵まで掘り下げらるような作品だ。展開はあくまでも内的分析を強化する、あるいは揺さぶる補助的な役割にとどまる。激情に取りつかれいく自己を、ここまで冷たく美しくリアルに表現する手法は圧巻だ。

彼女が小説で記したような内的衝動とそれに対する分析というのは、何か似たような経験を通じたものなのだろうか。当然ながら、想像だけではあれだけあそこまで踏み込んだ文章を書けないのだろうから、少なくともどういう形であれ、取材あるいは親しい友人の経験を通じるなどを必要としたのだろう。ヘミングウェイは小説を書く上で自己の何らかの特異な経験を必要としていたとされているが、それはあくまでストーリーテラーとして必要なのであって、彼女の場合とは違う。

ゆっくりとエスカレートしてく内的衝動と、それに対する冷たい解析的な美しい文章。最近読んだ最も印象が残った作品だ。