全ての不確実性をコントロールできない限り、自分のできる範囲でベストを尽くす事こそ僕のやるべきことなのだ。

靴下が不足気味だったので、銀座にあるブランドショップ(UNIQLO)に行った。僕は行く前から、ひとつの作戦を立てていた。それは3足(税別990円)全てを同じ種類で揃えることだった。それにはちゃんとした理由がある。

 

 

 

靴下はペアとなって初めて機能する。したがって、片方をなくしてしまったら、それでゲームオーバーだ。そこで僕はゲームのルールを変えることにした。つまり、靴下をペアとして機能させるのではなく、チームとして機能させるのだ。2足以上同じ種類の靴下があれば、仮にそのうちの一つを失うことがあったとしても、健全に保持された残りのメンバーでカバーしあうことができる。たしかに、失えばそれ自体損失であることは変わりはない。しかし、もう片方の靴下を泣く泣く捨てるということを回避することが可能になるのだ。

何足も同じ種類でそろえることのデメリットがあるとすれば、コーディネートの幅が狭くなるということくらいだろう。僕ほどのおしゃれ(ジーンズを滅多に洗わない)であっても、靴下とズボンがあっているかどうかなんてほとんど気にしない。したがって、この程度のデメリットはとるにならない些細なことだと言っていいだろう。

僕は自分の作戦に自信をもっていた。だが、現実は頭で考えるほど単純ではなかった。

実際に売り場に行き、「よりどり3足990円」の中から1種類だけをチョイスし、同じ3つを手に取ると、自分が愚かな選択をしているのではないかという意識に苛まれた。それは、ビュッフェ形式のレストランでカレーだけをおかわりしながら食べるという感覚に似ていた。焼きソバは食べなくていいのか?ピザも一応食っておいたほうがいいんじゃないか?たこ焼きもあるぞ?数種類選択できる権利を捨てるという事のもったいなさが、僕の判断を躊躇させるのだった。

「考えろ!」僕は自分に言い聞かせた。パンツだったら全て違う種類で行けばいい。同じにするメリットなんてほとんどないからだ。だが靴下は違う。同じ種類にはメリットがある。チームを組めるのだ。ここでは色々選べる選択権を行使することに何ら合理性はない。単なる習慣なんかに負けてはいけないのだ。

一方で、同じ種類を買うことを躊躇してしまうのには、無意識に何かを計算しているのではないかという考えも浮かんできた。僕が、想定していないデメリットがあるのではないだろうか?脱いだ靴下をもう一度履いてしまうリスクか?いや違う。そんなのはリスクのうちに入らない。

明らかに悪い兆候だった。僕は合理的な言い訳を探していた。人は時に情緒的な何かに突き動かされて不合理な選択をしてしまうことがある。僕ほどの意志の強い男(ジーンズを滅多に洗わない)にとっても、それが避けられない事だってもちろんある。しかしながら、都合のいい言い訳をさがしながら、自分の非合理を抗弁するのは正しいやり方とは思えない。僕はいつもの僕ではなかった。明らかに迷っていた。さあ、どうする?

しばらくして、レジで会計をする頃には、僕はもう清々しい気分を味わっていた。僕は迷いという苦しみから開放され、いまは自信に満ち溢れていた。この選択によって、どんな将来が待ち受けているのかは今はわからない。でも、いつかこのときを振り返ったとき、僕はベストを尽くしたんだと自分を誇れる事ができるだろう。全ての不確実性をコントロールできない限り、自分のできる範囲でベストを尽くす事こそ僕のやるべきことなのだ。店に入る前のひどく蒸し暑い夕暮れは幾分すずしくなり、帰る頃には心地いい涼しい夜となっていた。