曖昧さとは、解決あるいは回避すべき対象では必ずしもなく、一つの美徳として存在する事もある

現実的には全ての物事を二元論に還元する事は難しい。それが故に生じる曖昧さは、時に人を惑わせるが、同時に安心感を与える落とし所も提供する。形ある物体に裏と表を定義できるように、曖昧さとは、人々に妥協と調和を同時に与えるのだ。


epulorでは、CHIMAYというクラフトビールを置いている。スクールモン修道院で造られるトラピストビールだ。僕はこれを説明する時に、いつも迷う事がある。はたして、これはシマイだったか、それとも、シメイだったか。

その昔、僕が学生だった頃、放物線が近づくラインの事を漸近線と習った事がある。僕はその読みを、ぜんきんせんか、それとも、ざんきんせんか、うまく覚えられず、ざぇんきんせん、と発音していた。

CHIMAYについても、僕は曖昧に、しまぇい、と発音する事にしている。もちろん、世の中には、大抵の場合、ちゃんとした正解が存在し、それに従うべきだとう主張もよく理解できる。だが、ときに曖昧さを残して、調和をもたらす緩みも守る事があってもいいのではないだろうか。

僕は、はっきりした二元論を拒否するときは、知るべきを怠った怠慢だと解釈されても一向に構わないというはっきりとした意志を持って臨んでいる。したがって、epulor でCHIMAYを注文し、その読み方について糾弾したくなった時は、その事を覚えていてほしい。

曖昧さとは、解決あるいは回避すべき対象では必ずしもなく、一つの美徳として存在する事もあり、その美徳を守るために戦う人間もいるのだ。