10月 06日 90年代リアルタイム世代からみた80年代の音楽について
1970年代後半生まれの僕は、90年代を10代前半から20代前半にかけて経験しており、その時代の音楽をリアルタイムの若く高い感度で聴いていたので、その頃の音楽に対する感覚をわりとよく覚えている。

1980年代後半に急速に普及したCDは、90年くらいにはすっかり主流になっており、僕が中学生くらいのころには、それ以前の主な媒体であったレコードで音楽を聴く同世代は、少なくとも僕のまわりにはほとんどいなかった。カセットテープはまだ使われていたが、CDやラジオから音楽を録音するための媒体という側面が強くなっていた。
僕は高校生のころも、スマホどころか、携帯電話もインターネットも使えなかった。今では考えられないかもしれないが、中学生、高校生の頃、好きな音楽を自分のものとして所有しようと思えば、親からもらったおこづかいの中から、1000円ほどのCDシングルか、3000円ほどのCDアルバムをCDショップで買うことになる。もちろんレンタルCDを借りてカセットに録音したり、友人から借りたりすることもできたが、「自分のCDを持つ」ということには、それとは少し違う意味があった。
だからこそ、どんなCDを持っているかが、当時の若者の音楽感性そのものであり、どんな服を着るかと同じように、自分の内面的な自己表現の一つだったように思う。
若い学生時代だった90年代の僕にとっては、それはセンチメンタルに重要なことだったので、80年代の音楽なんてダサくて、CDを買う選択肢になりえなかった。小学生くらいのときにテレビで見たマイケル・ジャクソンをまねしてふざける子供はいても、中学生になって真剣に彼の音楽を聴く人なんて、僕のまわりにはいなかった。ボン・ジョヴィの曲を知っていても、自分でCDを買う人はいなかったと思う。
自分の子供の頃の記憶に残っている、少し古くなった流行歌というのは、若者にとってもっともダサく感じる音楽になるのかもしれない。デヴィッド・ボウイは、1970年代にジョン・レノンと初めて会ったとき、「ビートルズの話なんかしたらダサく見える」と考え、「あなたの作品は全部持っている。ビートルズ以外は」と言ったという。わずか数年前まで世界の最先端だったビートルズでさえ、次の時代を生きる若者にとっては、「いまさら好きだと言うのはダサい」ものになり得たのだ。
あまりにも古くなれば、それは古典になりうる。60年代のロックや50年代のジャズを聴くことは、90年代の若者にとってダサいことではなかった。しかし、自分が子供だった頃に大人たちが聴いていた、ほんの10年ほど前の音楽は、古典というにはまだ新しすぎたということなのかもしれない。
時間がたって、かつて若者だった僕も年を取ると、毛嫌いしていた80年代の音楽に対する見方も変わってきた。まるで、若い頃に反発していた、一世代上の大人と、お互いすっかり老けてからもう一度邂逅するように、80年代の音楽は、図らずも自分を形成した一つの懐かしい音楽として聴こえるようになっている。
MTVが1981年に始まり、ミュージックビデオが流行し、当時のバブルの香りが漂う、原色系の騒がしい見た目の映像も、いまではすっかりセピア色に古びて見える。当時若く活躍していた人たちも、いまではすっかり年を取り、亡くなってしまった人も少なくない。そんな人々の若い頃の音楽映像をいま見ると、なんとも言えない気持ちになるのだ。
50年から60年代、若者の間で流行し始めたロックは、当時の大人から見れば、自分の子供には聴かせたくないような音楽でもあった。ロックが上の世代に対する若者の反発の自己表現になり、それを同世代の多くが支持したように、パンクは巨大化し様式化していったロックに反発し、オルタナティブ・ロックも80年代のメインストリームの音楽や音楽産業とは違う場所から現れた。若者はやがて大人になり、今度は自分たちが反発される側になる。それを繰り返してきた。では、今はどうなのだろうか。
今の若者は、2010年代の音楽をダサいと思うのだろうか。今の大人は、今の子供たちが聴いている音楽を理解できないのだろうか。あるいは、ストリーミングによってあらゆる時代の音楽が同じように聴けるようになったことで、「自分たちの世代の新しい音楽」という感覚そのものが薄れてきているのかもしれない。僕自身、何もかも感度が鈍ってしまって、もはやそれを理解する術が見つからない。音楽には上の世代の音楽に反発するという機会そのものが、少なくなっているのかもしれない。
もちろん、多様化も、自分とは違う他者への尊重も、正しいものの考え方なのだろう。新しい時代の音楽が戦うべき相手を失ったとき、そこに見出したものは、待ち望んでいたはずの、広く相互理解された美しい世界だったのだろうか。