11月 04日 非専門店を通じて、言語化できない一つのストーリーを表現したい。スペシャルティコーヒーを淹れ、自然派ワインを出し、多ジャンルのレコードをかけながら。
先日、SNSで興味深い投稿を見つけました。一つの飲食店店舗が複数の専門店を装って、ウーバーイーツに出店しているというものです。この投稿は話題になっていろんな記事でも取り上げられています。
その投稿は、実店舗ではひとつの居酒屋にもかかわらず、ウーバーイーツ上ではからあげ、丼、カレー、ハンバーグ、寿司など8店舗の“専門店”を名乗り出店しているというもの。それぞれにはご丁寧に“それっぽい”店名が付けられており、あたかも実際にそのような店が存在するかのようである(Yahoo!ニュース)。
ここで興味深い背景は、やはり”専門店”を名乗ったほうがウケがいいという点です。カレーもある店よりも、カレー専門店のほうが、美味しいカレーが食べられるだろうと想像する気持ちはわかります。その店の設備、材料、スタッフなど全てのリソースがカレーに費やされているわけですから、片手間でカレーを作っている店とはわけが違うだろう、というわけです。
そもそも専門店が増えてきたのには理由があると思ってます。かつて、生産人口が増え続けることが難しくなり、経済がそれに乗って成長できなくなってきたとわかったとき、日本企業は”選択と集中”を求められました。他社がやっているから単に乗っかるのではなく、リソースを特定の商品カテゴリーやマーケットに集中し差別化を図るべきだと。人々に個性の重要性が強く認識されるようになったのもこの流れだし、あらゆるものの専門店が流行りだしたのも、その流れに沿ったものだと僕は思ってます。
専門店というのは、インターネットやSNSとの相性もよかったというのもあると思います。人々が特定キーワードによる検索やハッシュタグを通じて店を探すとしたら、言語化しやすい商品カテゴリーに的を絞ったほうがヒットする可能性を高くすることができます。たとえば、「バー」をつくるよりも「オーストリアワインバー」を作るほうが、ビッグワードに埋まらず、ミドルワードの特定の分野で目立つことができるからです。
その結果、人は無意識に専門店を過大評価し、無意識に専門店を検索して行くようになったという点は否めないと思います。また、運営する側も、そのような背景から、どんな専門店を作るかに集中してきていたのだと思います。もちろん、先述したように専門店のほうがリソースを集中している分、特有の専門性をもっている蓋然性が高い事は否定しません。ただし、それは手放しで評価していいほど強固なものなのかどうかは、立ち止まって考えて見る必要があるかもしれません。
20世紀初頭のシュルレアリスムはフロイトの精神分析と無意識世界への関心とは無関係ではありませんし、ダダイズム、マルセル・デュシャンの作品における既存価値の否定は、第一次世界大戦やスペイン風邪のパンデミックと切り離すことはできません。多数の人が信じる美意識や価値観というのは、知らず知らず大きな流れの渦に巻き込まれます。自由意志とは、好むと好まざるとにかかわらず、意識するよりも狭い範囲でしか機能していないものです。
僕にとっての外食とは、食を通じたエンターテイメントです。特定キーワードの専門店というのは、一つのストーリーにすぎません。単純に食事が美味しいのかどうかは、情報ではなく自分で判断するべきものだし、何らかの情報で美味しいと感じたとしたら、それはそれで一つのストーリーです。運営側がどんなストーリーを表現するか、人がどのようなストーリを評価するのかは、時代背景の関連性とともにとても興味深いです。
僕のepulorにおけるひとつのチャレンジは、非専門店の言語化できないストーリーを表現することです。それは今の時代に評価されるには、すこし不利なのかもしれません。時代の転換期において、何かのきっかけで評価されるかもしれませんし、さらに不利になるかもしれません。epulorでは、浅煎りコーヒーも深煎コーヒーも出します。ナチュラルワインもクラフトジンも出します。レコードはジャズもファンクもロックもクラシックも邦楽も流します。なんでもいいわけではないですが、専門店では決してない、でもそこには多ジャンルに共通する一つのepulorのストーリーを創っているつもりです。僕たちはそれをゆっくりと育てていきたいです。