なれなかった自分

僕は時々「なれなかった自分」について考えることがある。昔、自分が思い描いたような大人には残念ながらなれそうにない。

 

僕は会社帰りに行きつけの小料理屋に飲みに行くような大人になりたかったのだ。そこには美人ママがフロアーを切り盛りしていて、僕がのれんを潜ると「あら、いらっしゃい。遅かったのね。」みたいな感じに迎えてくれるのだ。そして、いつものカウンターに座り、いつもの日本酒をのみながら酒肴つまむのだ。

「ママも一杯どう?」閉店間際でのれんを片付けるママに声をかける。いやらしくもなく、それでいて大人のセクシーさを絶妙に保った声でだ。「あら、じゃあ、いただいちゃおうかしら。」ママは僕の隣に座ると、自分のおちょこを差し出す。僕はそれにゆっくりとお酒を注ぐ。

だが、そんな昭和のテレビドラマ感漂う光景を、僕はもう実現することはできないだろう。僕が道を間違えたのかもしれないし、時代が残酷にもその可能性を潰してしまったのかもしれない。世の中は昔に比べて格段に多くのことが改善されたと信じているが、失って取り戻せなくなったものもそれなりに多い。

ノスタルジーとは、とりもなおさず、過ぎ去って取り戻せなくなった過去に対する喪失感の、ほんのささやかな救済の試みなのだ。僕が時々、酒を飲みながらYoutubeでドリフを見たりしてしまう理由の一つは、きっとそういったことなんだと思う。

「あなたの知覚はどれだけ瞬間的であろうと、このように、数え切れないほど多くの思い出された諸要素から構成されているのであり、実を言うと、すべての知覚はすでに記憶なのである。われわれは、実際には、過去しか知覚していない。純粋な現在は、未来を侵食する過去の捉え難い進展なのである。」(物質と記憶/ベルクソン)